泥の惑星

昨日はユーロスペース井土紀州監督の『泥の惑星』上映後に、監督と向井康介君と三人でトーク。他のお客さんと一緒に作品を鑑賞。客席からそのまま壇上にあがったんだけど、まだちょっと涙ぐんでいた。
小さな若者たちが、自分の見ている範囲だけが世界のすべてだと思い込んでいる。でも薄々と自分の外側にもっと大きな、把握しきれない世界が広がっているのを感じて、期待と不安に魂を震わせている。それが悲鳴のようなサックスの音色とともに描かれる。いまあの子たちがキスしていることを、レンコンを引っこ抜いているあの子たちは知らないし、教室で他愛ないお喋りに興ずるあの子たちは、自分たちの真上の屋上で今まさに自殺しようとしているあの子のことを知らない。お互いがお互いのことを知らない。哀しくなるのは、現在進行形では決して世界は見渡せないということだ。『泥の惑星』は彼らの愚かしさを、編集というテクニックによって見渡してみせる(が批判はしない。人はその愚かしさとともにしか生きられないから)。生身の人間がそれを出来るのは、いつでもその出来事から遠く離れたときのことだ。だから『泥の惑星』は、映画が夢や追憶に似ていると告げているように思える。