ゲゲゲの女房

日曜日は文学フリマでいろんな人と話ができて楽しかった。
昨日は新宿武蔵野館鈴木卓爾監督の『ゲゲゲの女房』を観た。終わらないで欲しい映画だった。冒頭の男の子、「忍法!」とか言って壁にはりつく男の子にまず心つかまれる。鈴木監督のエロさも素晴らしかった。宮藤官九郎が「風呂を入れた。背中を流して欲しい」と言ったあとの、吹石一恵の足のアップ。しかも靴下を脱ぐ、という動作で足を露出させる演出。テレビ版は観ていないけれど、「お見合いから5日で結婚」という設定を聞かされたときにパッと頭に浮かぶ「新婚初夜はどうしたんだろう?」という素朴でがさつな疑問に繊細に答えていると思った。廊下を拭き掃除する吹石一恵の迫りくるお尻もサービス満点。そうそう、庭先で踊る妖怪の生足もどこかエロティックなんだけど、あれは『鋼』なのかもしれないとニヤニヤしてしまった。
劇中、現代の風景(調布のパルコなど)がなんの断りもなく映し出されることに、違和感をおぼえるという感想もちらほら見かけたが、ではそういう人たちは劇中の妖怪たちや、不意に動きだす漫画のコマのキャラクターにも違和感をおぼえたのだろうか? なぜ庭先で踊る妖怪を「自然」と感じ、パルコを「不自然」と感じるのだろう。あのパルコのビルは、一種の妖怪なのかもしれない、と僕などは感動してしまったのだが。
夜の暗さ(玄関の外の闇)にも感動した。何度か出て来るけれど、例えば原稿用紙の上の鬼太郎が吸血鬼エリート(霧の中のジョニー?)のギターの調べにフラフラといざなわれてしまう場面の暗闇、あれは素晴らしい。「光を当てない」という否定ではなく、積極的に墨で塗りこめることで夜が表現されていた。不意に頭の中で湯浅湾の「色は何色」が鳴り響いた。