時空が歪む

体重は減少傾向。ウェストも減ってきた。
昼から美学校。久しぶりに『ジャン・ルノワールの演技指導』を観る。演出は段取りではないことがわかる。時間(と思考)は一直線ではない。先取りしたり、先延ばししたり、歪んだり。誤謬も含まれる。その結果、本当にいいものが得られるかどうか、わからない。結局、「演出はわからない」ということしかわからない。
しかし生徒とのやりとりでは、わかったふりをしなくてはいけない。などと韜晦している場合じゃないんだけど。
授業終了後、東中野へ。ポレポレで『怒る西行』を観る。『一万年、後…。』もそうだったけど、「いまここ」にいる存在と、それと無関係に流れる人間の外側の時間についての壮大な思考が扱われているのだが、そんなことはどうでもよくて(よくない)、素敵なリズムを持つ音楽的な映画だった。監督である沖島さん(と面識もないのに呼ばせてもらう)が久我山から井之頭まで、玉川上水に沿って歩きながら思いついたことなどを語っていく。同行するのは若い石山。二人は喋りながら歩く……と思ったら、しょっちゅう立ち止まる。「さあ、行きましょう」と監督が言って歩きだしたと思ったら、石山が「そういえばこないだ村上春樹っぽいとか……」と話題を振って、また立ち止まる。基本、川の上流に向かうんだけど、川の反対側に移るために引き返したりする。そんな二人にカメラは寄り添う。のだけれど、たまに頑固にその場に立ち止まったりする。喋りながら歩いている人間を撮るのって、実は難しい。マイクの距離もあるから、追うか、先導して振り返るしかない。たまに実景として撮られた画面に、二人を捉えたときの声がヴォイスオーバーでかぶったりする。よくある手だ……と、思ったら、その画の中に二人がフレームインするカットがあって、びっくりした。実はカメラは二人につきっきりではない。そのずれが、不思議なリズムを作っている。そのリズムのせいなのか、すでに過ぎ去ったカットで沖島さんが喋っていたことが遅れて思い出されたりする。いま目の前で喋っていることなんてどうでもよくなってしまって、いま沖島さんのすぐ脇を流れている水は、ずっと前に通過した橋の下を、沖島さんとは無関係にこのあと流れるんだな、いや一瞬関係したんだけどそんなこと誰も知らないまま流れるんだな、などと楽しくなってきてしまう。
おそらくこの映画、去年の春くらいに撮影されたんだろうけど、ちょうどその頃、俺はあの玉川上水あたりをしょっちゅう散策していた。自転車で。カメラを持って。だから、ありえないことだと思いつつ、同じ日の、別の時間に、あの道を走っていた可能性はある。そんなことはあの映画にまったく関係ない。そのまったく関係ない感じが、あの映画に関係ある感じがして、不思議な感じがする。
と書いて、まったく関係ないことを思い出した。昔、金がなくて散歩ばかりしていた頃。夜、東中野を歩いていたら、BOX東中野(いまのポレポレ座)の入り口のあたりで映画の撮影をしていた。かなりあとになって、『20世紀ノスタルジア』を観ていたら、その場面が映った。あれは不思議な感じがしたな。映画のロケ隊の周りに人が集まるのは、そういう不思議さをみんな直感的にかぎつけるからなんだろう。
上映後、沖島監督と鎮西監督のトークがあった。沖島さんが、喋っていたことは、この世界を認識できるという傲慢さについてだったと思うんだけど、すでにうろおぼえ。
帰り際、鎮西監督が僕を発見してくれて、声をかけてもらった。「mmm、やばいよね」だって! 監督、31日の吉祥寺のライブ、行きませんか?