喫茶店

ものすごい疲労を感じて、眠り続けた。
昼過ぎから喫茶店で仕事。
夜、DVDで『ジョーズ』。子どものときには「スピルバーグは人間が描けてない」という評を理解できてなかった。「人間映ってるじゃん」と。バカだね、俺。明らかにスピルバーグは人間に興味がないのがよくわかった。でもそのことで逆説的に、「こんな人間もいる」という感触もある。サイコパス? 
漫画をあまり読まなくなっているんだけど、東村アキコの全部と、『百舌谷さん逆上する』は新しいのが出るのを心待ちにしている。『百舌谷さん』、ツンデレという最近の流行語を使った軽いノリのコメディかと思ったら、そういう外見をまとったハードな人間ドラマだった。テーマは「生き難さ」。それ自体はありきたりかもしれない。でもこの作品は、「(本当は愛を求めているにも関わらず)他人に愛されることを感じると極端にそれを拒否し、相手に攻撃的な反応をしてしまう」という病を生まれつき背負ってしまった少女、というある意味究極の「生き難さ」についてとことんつきつめて思考実験をしている。これが単なるコメディでないのは、最新刊を読めばわかる。お気楽なコメディであれば、主人公は成長せず、彼女の「ツンデレ病」ゆえに起きるドタバタは永遠に終わらないだろう。連載漫画でコメディをやる、というのは、永遠に主人公のキャラクターが成長しないということだ。キャラクターの性格そのものが「企画」なのだから。たとえ主人公の恋の行方というプロットがあったとしても、恋の成就によって主人公の性格が変化しないのであれば、漫画は終わらずにすむ。しかし『百舌谷さん』の最新刊では、主人公の性格に「危機」が訪れる。そこに僕なんかは感動してしまう。一見日常とは無縁の突飛な設定で読者をひきつけながら、普遍的な感動を生みだしてくれている。
あと、よく知らないんだけど、作者はどうやら故伊藤計劃氏と大学時代の仲間であったらしい。そのこともこの作者に惹かれる理由かもしれない。天才の近くには、やはり才能が集まるんだな、と。僕は伊藤氏と会ったことはないのだけれど、近所に住んでいることは噂で知っていた。そして篠房六郎氏が描いた伊藤氏の容貌を見て、一度だけ中央線の中で見かけた、僕の正面に座る帽子をかぶって杖をついていた男性が伊藤氏だったんだ、と確信した。当時は「そうかな?」とあやふやに思っていたが、見ず知らずの人に声をかけるのも失礼かと遠慮したのだった。でもいまにして思えば、一言でも声をかわせばよかった。当時すでに僕は『虐殺器官』を読み終えていた。感動して周囲に吹聴してまわっていた。街で見知らぬ人に「面白かった」と言われても困惑されただろう。でも伝えたかった。同世代で本気で「世界レベルだ」と思える人がいることの感動を。